レバノン内戦


ある国で、"内戦"、が起こり、それが長期化して泥沼に陥るメカニズムを探ると、当事国ではなく、その国と関係の深い他の国同士の利権が複雑に絡み合った構図が見え隠れする場合がほとんどである。

広く一般に、"レバノン内戦"、と呼ばれているものについても、これと全く同じメカニズムにより戦火が拡大・長期化してしまった・・・。

『そもそも、レバノンには内戦なんて無かった』、とする意見もある。

レバノンを取り巻く、対立する諸外国同士の利権のぶつかり合いが、レバノン国内で起こった、ほんの些細な"いざこざ"を、これらの国々が起爆剤として利用してしまったばっかりに、多数の犠牲者と長期にわたる政治的混迷、甚大な経済的損失を招いてしまった・・・。



こんな、"レバノン内戦(と呼ばれているもの)"について、以下にまとめておく・・・


1975年4月、ベイルート市内のキリスト教の教会前を通りかかったPLO支持者たちのバスから、イスラム教徒がこの教会めがけて発砲し、教会に居合わせたキリスト教徒により組織されたファランヘ党のメンバーがこれに応戦した。
この事件は、"アイン・ルンマーネ事件"と呼ばれ、レバノン内戦の始まりとされている。

その後、イスラム教・キリスト教の各宗派双方の民兵組織が関与する襲撃事件が後を絶たず、毎週末に激しい戦闘や襲撃が行われた。
これを、"ブラック・マンデー"と呼ぶ。

こうした小競り合いを繰り返すうち、ベイルートの街は、イスラム教徒やパレスチナ難民の多い西ベイルート地区と、キリスト教・マロン派が多く居住する東ベイルートに分裂する・・・。
そして、これら東西ふたつの地区を分ける境界線として、"グリーン・ライン"、と呼ばれる分離帯が築かれることになる。

もともと、複数の宗教・宗派が複雑に絡み合って成り立つ、"モザイク国家"、レバノンであったが、歴史上の類似する国家がそうであったように、一旦秩序を乱した"モザイク国家"の行く末はみな同じで、坂を転げ落ちるように国内の治安が急激に悪化した。

レバノン国正規軍も統制力を喪失し、いつしか開店休業状態に陥ることになるのだが、それに反し各宗派の民兵組織は、正規軍から装備ともども移籍してきた元正規軍メンバーが加わったこともあり、個々の戦闘は益々激化の一途を辿ることとなった。

そんな無政府状態の中の1976年5月、弱体化し統治能力を喪失していたレバノン政府は、シリアに助けを求めた。
これに呼応したシリアは、レバノンへの軍事介入を決定する。

ただし、この軍事介入の裏には、"レッドライン協定"なるものが存在していた・・・。
米国の仲介で締結されたこの協定は、シリアとイスラエル双方の直接対決を回避するためのもので、レバノン領内でのシリア軍部隊の駐留場所や兵器の種類・数量などを詳細に取り決めたものだった。
また、シリア軍にはキリスト教徒側への攻撃を行わない旨の約束をさせられた。

このシリア軍の軍事介入により、対立するキリスト教・マロン派側の民兵組織である"レバノン軍団(LF)"は劣勢に陥ってしまう・・・。

1978年、劣勢を挽回するための一発逆転を狙ったLFは、シリア軍に攻撃を加え、揺さぶりをかけた・・・。
この挑発にまんまと乗せられたシリアは、"レッドライン協定"を無視、LF(キリスト教・マロン派)の拠点である東ベイルートに砲撃を加えてしまう・・・。

1980年に入ると、シリア軍対LFの争いは激しい戦闘に発展、イスラエルは協定違反としてシリア領に隣接するレバノン南部を占領する。
また、イスラエルは、反政府レバノン人により組織された"自由レバノン軍"と呼ばれる民兵組織を結成させ、自国軍を支援させた。

一方シリアは、LFが東ベイルートとベッカー高原を結ぶ軍事道路を建設・整備したため、LFに攻撃を加えた。
これに対し、LFはイスラエル軍に救難を要請、これに応えたイスラエル空軍の戦闘機がシリア空軍のヘリコプターと交戦、撃墜してしまう・・・。
この報復としてシリアは、"レッドライン協定"を無視、地対空ミサイルをベッカー高原に配備し、局面はシリアとイスラエルの全面対決の様相を見せ始め、一触即発の事態に陥ったが、翌1981年、米国の仲介によりこの事態は沈静化する。


1982年6月、パレスチナを追い出され、レバノン(南ベイルートにはパレスチナ人の難民キャンプがあった)に逃れたPLOに対し、イスラエル軍は執拗に追いかけ回し、攻撃を加え続けた・・・。
PLOが首謀者となり、駐英国のイスラエル大使館に対するテロ攻撃を行なった事への報復というのがこの攻撃の理由だった・・・。
しかし、瞬く間にベイルートまで侵攻・制圧してしまい、イスラム教徒の住む西ベイルートを封鎖する。
この時、東ベイルートから西ベイルートへ、物資を満載したトラックで"グリーン・ライン"を突破する命知らずの行商人が多数横行・・・。
地雷や銃弾・砲弾をかいくぐり、無事西ベイルートへ到達し莫大な利益を得た人間もいれば、失敗して命を落とす人間も後を絶たなかった・・・。

結局、"LF"や"アマル"と共同戦線を張り、駐レバノン・シリア軍に壊滅的被害をもたらしたイスラエルは、"やり過ぎ"、との国際的な非難を浴びることになる。

同1983年8月、PLOは停戦に応じ、拠点をベイルートからチュニジアのチュニスに移した。

この直後、米国、イギリス、フランス、イタリアなどで組成された多国籍軍は、パレスチナ難民に対する安全保障という名目でレバノンに駐留することになる。

レバノンを親イスラエル国家として再構築すべく、イスラエルは事実上の傀儡政権の成立を画策・支援するが、LF出身の指導者的立場の人物が次々と暗殺されるなど、その計画はことごとく失敗し頓挫してしまう・・・。

ベイルートに駐留する多国籍軍は、長いこと開店休業状態だったレバノン政府軍を蘇生させた。
ここで、"政府軍+LF"軍勢力と、"イスラム教・ドルーズ派+アマル"軍勢力による、レバノン中部シューフ山地の陣取り合戦が激化、劣勢に立った政府軍は米国に軍事支援を要請する・・・。

これに応える形で、ベイルート沖に停泊していた米海軍・戦艦ニュージャージーからの150発にも上る艦砲射撃や、空母艦載機による空爆などの手厚い軍事支援を受けるが、結局、政府軍側の敗北に終わる・・・。

また、この状態のままでの内戦終結を容認できないイスラム教の各民兵組織は、駐留する多国籍軍へのテロ攻撃を激化させていった・・・。

1983年4月、ベイルートのアメリカ大使館がクルマを使った自爆テロ攻撃を受け、60名が死亡、120名が負傷するという大惨事が起こった。
このとき採られた、"クルマを使った自爆テロ"、は、その後のイスラム教過激派によるテロ攻撃の手本となり、常套手段化してしまった・・・。

同年10月、アメリカ海兵隊の宿舎にワゴン車が突入・爆発し、241名が死亡、また、これと同じ日に、フランス空挺隊基地にも同一犯行グループのものと思われるクルマによる自爆テロが発生、297名が死亡した。

これらの自爆テロは、"アマル"、から派生したイスラム原理主義路線の、"ヒズボラ"、が実行したとされるが、駐留していた多国籍軍に甚大な損害を与え、多国籍軍撤退への道筋を作った。

ベイルートに住むイスラム教徒との会話中に、この事件のことが話題に上ると、喜々とした表情で話が弾む・・・。
ベイルート滞在中、昼食後にわざわざ"ヒズボラ"の本部まで見学に連れて行かれた経験を僕がしたことでも分かるように、今日でも"ヒズボラ"は一般大衆からは熱烈に支持されているようだ・・・。


1984年2月、遂に多国籍軍は撤退を開始する・・・。

以後、再びレバノンには無政府状態が訪れることとなった・・・。

幾度となく、諸外国による内戦終結の努力が払われるが、すべて実を結ぶことはなかった。

各イスラム教民兵組織は、西ベイルートに舞い戻り、これらに追い出される形で、政府軍はキリスト教徒が支配する東ベイルートへと逃れた。

民兵組織は、各々の支配する地域で勝手に通行料などの"税金"を市民から徴収するようになっていった・・・。
こうなると、この利権が火種となり、次第に内戦の対立は、細分化された民兵同士の"総当り戦"の様相を呈するようになっていった・・・。


1986年になると、外国勢力がいなくなったレバノンに対し、シリアとPLOが再びちょっかいを出し始めた・・・。

その後、PLOと対立するシリアは、主流派イスラム教民兵組織から離脱・派生した一派を支援・利用して、PLO寄りのパレスチナ難民キャンプへ攻撃を加えた・・・。
この紛争で多数のパレイチナ難民の犠牲者を出すことになってしまう。

また、断続的に各民兵組織間での争いが頻発し、そのたびにシリアが事態の収拾をはかっていった・・・。


そんな中、レバノン政府軍の実力者であるアウン将軍が、『民兵組織を解体し、中央集権政府の樹立と、シリアから主権を取り戻す』、と明言する。

彼が率いるレバノン政府軍とLFは、今度はイスラエルではなく、当時シリアと対立していたイラクに支援を求めた。


レバノン内戦終結をめざし、サウジアラビアが旗振り役として1989年に採択された、"タイーフ宣言"、は、地道な活動の結果、徐々にその効果が現れ、事実上、アウン率いる政府軍とその一派以外の各勢力は、この宣言に同意することを明言した。


湾岸戦争で多国籍軍側に貢献したことで米国の後ろ盾を得ることに成功したシリアは、レバノン内戦終結をも一任されることになった・・・。

一方、アウン派政府軍は、湾岸戦争でイラクが敗北に帰したことから、大きな支援が得られなくなってしまい弱体化していった。

シリアは、レバノンへの軍事介入を本格化させ、アウン派政府軍とそれを支持するイスラム教・キリスト教入り混じった民兵組織連合軍に対し、重火器を用いた激しい攻撃を加えた・・・。

たび重なるシリア軍猛攻の末、いつしかアウン派政府軍を支持していた民兵組織は戦線離脱、そして遂にアウンはフランス大使館に駆け込み、亡命した・・・。
1990年、アウン派政府軍は終焉を迎え、ここでシリアによりレバノン内戦は終結する。

その後、キリスト教徒・イスラム教徒両派の民兵組織指導者が閣僚に就任し、ここに挙国一致内閣が樹立、引き続きシリアによる民兵組織の武装解除が順次おこなわれていった。


以来、2005年4月の完全撤退まで、シリア軍はレバノン領内に常時約3万人の兵力を駐留させ続けた。


シリア軍の完全撤退が実現した背景には、2005年2月に起きたハリリ元首相暗殺という重大事件が関わっている。

この事件をきっかけに、米国を筆頭に各国からシリアに対する非難の声があがり、完全撤退という、長年にわたり懸案となっていた問題に終止符が打たれた・・・。


しかし、依然として"ヒズボラ"などのイスラム原理主義を基盤とした民兵組織は健在で、特に南部レバノン地域では、イスラエルとの武力衝突が頻発している。