救援機に日の丸は無かった


イラン・イラク戦争中の1985年3月12日、イラク軍はテヘランへの空爆を開始した。

5日後の3月17日、サダム・フセイン大統領(当時)は、『3月19日20時30分以降、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす』、という声明を発表した。
諸外国政府は、イラン国内に滞在中の自国民を救出するための救援機を、速やかにテヘランに向かわせた・・・。

しかし、日本政府は救援機の手配に手間取り、現地の日本人200名以上はイラン脱出のメドが立たないまま取り残されてしまった・・・。
実は、日本政府からの要請を受けていた日本航空は、タイムリミット以前にイラン領空を脱出できない見込みとなったことを理由に、テヘランへの邦人救援機の派遣を断念していたのだ。

結局、非公式ルートでの交渉の末、トルコ政府が救援機の派遣要請を快諾、民間機であるトルコ航空機がテヘランへ急派された。

このトルコ航空機が215人の在留邦人を乗せてイラン国境を越え、トルコ領空に入ったのはタイムリミット直前のことであった。


トルコ政府が救援機の派遣要請を快諾した理由として、「エルトゥールル号の事故に対して日本人が行った献身的な救助活動に対するお返しである」、と当時のトルコ政府筋は語っている。



この事件を契機に、日本国内では政府専用機導入の機運が高まり(当時大問題となっていた米国の対日貿易赤字を減らすための国策としても有効ということで)、この事件の2年後の1987年に政府専用機の導入が正式決定、1992年に初号機が総理府へ引き渡された。